活動日記

2019/11/13(Wed)
どう生きてきたか・その㉒
2000年3月末日、濱田は日商岩井株式会社を辞めた。周囲に特に相談はせず辞めた。

仲の良かった何人かの同期に会社を辞めることを伝えると、「まだ間に合いから、考え直せ」と言われた。

国内鉄鋼部にいた同期の谷君は、

「同期の中で社長が出るとしたら、俺か大造のどちらかだと思っていた。一緒にやっていこうぜ。辞めるんじゃねえよ。大造がいなくなったら楽しみが減るじゃないか。」

同席した加藤君は、「大造も谷も、よくて課長どまりだよ。好きにすればよい。」と言った。

加藤君は海外留学組で濱田と同時期にメキシコに留学。その後、丸紅に転職し、ブラジル・サンパウロに赴任。一度、熊本に遊び来てくれたことがある。谷君は、その後、三菱商事との合弁会社メタルワンに転籍し、日産のメキシコ工場担当で海外駐在を経験。原子力部にいた堤君は心配してくれた。堤君は、その後の最初の選挙の時、泊まり込みで応援に来てくれた。その後何度か仕事でも熊本に来てくれている。

事後報告として大学の友人たちに東京を去ることを伝えた。すると何人かが集まってくれて送別会を開いてくれた。

富士銀行(現・みずほ銀行)に就職した西村君は、

「大学の中で多くの人と出会ってきたが、将来、政治家になるとしたら、濱田しかいない、と思っていた。お前なら成れるよ。」

と言った。

送別会に集まってくれた友人達の中には、現在、東京大学経済学部大学院で教授を務める川口大司教授や官僚をやっている向井君もいた。

会社を辞めることを母親と兄に伝えた。

母親は、「あなたなら成れるでしょう。」と言い、兄は「お前なら成れるよ」と言った。

当時、日商岩井株式会社の本社は、国会議事堂の近く、首相官邸のすぐ近くにあった。

【目指すべきは、国会。衆議院議員になり、国家・国民のために働く。】

モスクワから帰国して半年後に下した決断と掲げた大いなる目標であった。

(続く)

2019/11/12(Tue)
どう生きてきたか・その㉑
濱田は1999年の11月に帰国を果たしている。配属されたのは、国際業務部。海外の情報等を取り扱う部署であった。

人事部からは、「ロシア情勢が落ち着けば、営業部門に配属できるだろう。しかし、1年後か2年後か3年後かは分からない。」とのことであった。

当時、日商岩井はバブル時代のツケ、投資・特金ファントラ(特別金融ファウンドトラスト)による巨額の特別損失(約1600億円)を計上し、会社が大きく傾こうとしていた時期であった。

日商岩井の社長・会長を務めた速水優氏が日銀出身ということもあり、速水氏の判断でバブルの頃に特金ファントラに投資。

その巨額の投資が裏目に出たのだ。

会社に巨額の損失をもたらした本人が、急遽、日銀の総裁になったので、日商岩井の社員は当時複雑な思いだったことは確かなことである。

「この人が日銀総裁で大丈夫なの?」

その後、速水氏は、世界で初めての【ゼロ金利政策】を導入している。

濱田の同期は99人いた。繊維部に配属された同期は、部署ごと帝人に身売りされていった。情報部門に配属された同期も新会社への転籍を求められた。

利益が見込めない部門に配属された同期は、部門ごとM&Aで身売りされるか、本社から切り離され関連子会社の社員となっていった(転籍)。

先にモスクワから帰国していた米田氏は、川崎製鉄の商社部門である会社に転職することになった。

【本人の意思や能力とは、別の次元で、人生が大きく変わってしまうことは十分にあり得る。】

当時、そのことを理解したのだ。

そして商社マンとしての基礎を十分過ぎるほど体得した濱田が下した判断は、サラリーマンを卒業し、新天地で生きるという判断であった。

気持ちとしては、

吾、三十にして立つ

だった。

(続く)

2019/11/11(Mon)
どう生きてきたか・そのS
濱田はモスクワでの稔りある1年半の研修を終え帰国。人生を変える大きな変化が訪れることになる。

濱田がモスクワ大学に留学していたちょうどその頃、ロシア金融危機が起きた。

ロシア金融危機(1998年8月〜1999年)とは、ロシアの財政が悪化したところへアジア通貨危機の余波も受けて発生した債務不履行(デフォルト)並びに、一連の経済危機を指す。当時ロシアは、大幅なルーブル下落に伴い、デノミ政策を実施。ニューロシアンと言われた富裕層は、海外に資産を移し、また海外からのロシアへの投資も大幅に減った。

このロシア金融危機が濱田の運命を大きく変えることになる。

1年半のモスクワでの研修を終えた頃には、日商岩井の対ロシア貿易額は大幅な減少を強いられていた。

濱田は「営業部門に移籍する」前提で海外研修に出た経緯がある。研修後は、対ロシア貿易の何れかの営業部に移籍する。

これが会社と交わした留学の条件だった。

ロシア金融危機により、状況が一変。どこの営業部門も入社6年目の社員を引き取る余裕はなくなっていたのだ。

変化の兆しは、留学中にすでにあった。

モスクワ支店の副支店長を務めていた米田氏は、東京外大ロシア語科卒のバリバリに商社マンだった。英語とロシア語を巧みに使い分ける語学の達人。仕事もできた。

濱田は米田副支店長から大変可愛がられたことを覚えている。

その米田副支店長は、油井管(ゆせいかん)を取り扱う鉄鋼部門の部長として辞令が下り、モスクワ店の社員一同で米田氏の帰国と栄転を祝う会を催したことがある。

濱田は運輸部の中でも鉄鋼製品を取り扱う部門の社員だったので、米田氏からは「帰国したら俺の下で働くとよい。油井管部に来い。一緒に油田を掘るぞ!」とのオファーを頂いていた。

濱田もその気でいた。油田を掘る仕事は、商社マンとしてはロマンを感じる仕事なのだ。

しかし、それが一変する。

米田副支店長が帰国する約2週間前になって、辞令が取り消されたのだ。油井管の部長の話は流れ、部長は部長でも関連会社の部長へ変更。そこには意気消沈する米田副支店長の姿があった。

米田氏もロシア金融危機の煽りをもろに受けた一人だった。

米田氏は1999年の3月末に帰国。そして濱田は年末に帰国。

結局、濱田はどこの営業部門も引き取り手がなく、管理部門である国際業務部に行くことになったのであった。

(続く)

2019/11/10(Sun)
英語を学ぶということ
安倍総理が政権に返り咲いて丸7年が経とうとしている。

ここに来て、あらゆる意味で長期政権の【弊害】が噴出しつつある。閣僚2人の辞任、国費を使った花見の会の私的利用等々・・・

英語試験の民間業者への外部委託問題も然りである。あまりにも定見のないこの英語科目(リスニング・スピーキング)の外部委託は、萩生田大臣の「身の丈」発言も絡み、一応、延期ということになった。

今回の大学入試改革、中でも英語科目の外部委託は、国際化が進展する中で、議論が進み、導入されることが決まったそうである。

では、そもそも国際化が叫ばれる中で、日本人は英語をどの程度話す必要があるのであろうか?

正直、多く見積もっても、英語が必要な日本人は10%程度だと考えている。

濱田は、英語を使う最前線の職業(商社)で働いていた経験を持つが、日本の総合商社でもすべての部門で英語が必要なわけではなかった。商社、メーカーの海外部門、医者、国際弁護士、国際公認会計士、官僚、海外との取引がある諸団体や機関。パイロットや船長・・・・

英語を必要とする職業は限られており、また本当に英語を仕事で日常的に使っている日本人は全体の10%に満たない状態ではないだろうか。

つまり残りの90%の日本人は、英語が話せなくても、まったく困ることはないのだ。

今回試みた英語試験の外部委託は、英語需要の実態をほとんど無視した改革案だったことが分かる。90%の日本人は、英語のリスニングが出来なくても生活にも仕事でもまったく支障がないのに、受験でその技量が求められたのだ。

では、何のために英語を学ぶのか?

この根源的な問いに答えられない限り、英語教育の意義というのは曖昧なものとなる。

この点を理解していない者が、改革を進めようとするから、政治家になっていまい、変な方向に議論が進んでしまうのだ。

日本人は、英語を【教養】として学んで来たのである。

明治期以降、日本の学生は学校で英語を学ぶに際して、当たり前のことであるが【英単語】そして【文法】を学んできた。日本人は文法を学ぶことによって、外国人がどのような思考法・発想の元、言語を使用しているのかを学んできたのである。

西洋の言語は、軒並み1人称から始まる。I(私)から始まる言語。

西洋文明の考え方の基本にあるのは、【私】なのだ。【私】を主張し優先する。そんな言語の上に西洋社会は築かれている。

そのことを外国語(英語)の学習を通じて理解してきたと言ってもよい。

ちなみに日本語は、基本的に【私】という主語がなくても会話が成立する言語となっている。

例えば、日本語で「私はあなたが好きだ」という文章や会話は、本来的な日本語ではないことが分かる。日本語は「あなたが好きだ」で十分、伝わる言語なのだ。

次に英語を学ぶことによって、高校生は外国人が書いた一流の評論を読む機会を得てきたと言える。

英語の受験問題には、欧米の作家や社会学者、哲学者等の文章が多用されてきた。モーム、ヘミングウェイ、ラッセル・・・・

日本人は、(受験)英語を通じて海外の優れた文章に接する機会を得て来たのである。それらを読み込むことによって、知らず知らず、教養の扉をこじ開けてきたのだ。

今回の受験英語の外部委託は、これらの効用をほとんど無視することを意味している。

読むことよりも話すこと聴きとることを重視する政府の姿勢は、【実利を追及することがすべて】とする世相を反映しているのかもしれない。

実利を追求するだけで教養無き教育の先には、碌な未来は待っていないことだけは確かなようである。

2019/11/09(Sat)
立憲民主党パートナーズ集会
立憲民主党パートナーズ集会が無事に終わった。メルパルク熊本 13:00〜15:00

約120人の関係者にお越し頂いた。

矢上雅義衆議院議員が国政報告を行った後、濱田が県政報告を行い、その後質疑が行われた。

人間という生き物は高等生物である。

自分の知らないことを【知る】ことで充足感・満足感を得られる生き物なのだ。

濱田の話はそういった観点から語られる。この活動日記もそうである。

集会は大変好評だった。

県内の他の地域でも行って欲しいという要望が何人かの参加者から寄せられた。


2019/11/07(Thr)
どう生きてきたか・そのR
社会人5年目で経験したモスクワでの1年半の生活は、実に稔りある生活であった。

ちなみに同時期にサンクトペテルブルグ大学(日本でいう京都大学)に探検部の後輩の清水君(東京三菱銀行から派遣)が語学留学中だった。彼とモスクワで飲んだ際、言われたことを思いだす。

「モスクワ大学の留学生は、みんな仲、良いらしいですね。羨ましい限りです。こっちはみんなバラバラですよ。大造さんがいたから、仲良いんですかね。そうですよ。きっと。」

清水君とは、大学4年の時、一緒に冬山に登ったことがある。目指したのは唐松岳。登頂が無地完了し、下山途中、標高2500メートル付近で猛吹雪に見舞われ、12月22日の下山予定が2日遅れて24日になったことがある。

胸の高さまで積もった雪をかき分けてのラッセル。体力の限界間際まで追い詰められたことがあった。

麓の関係者は、「彼らは遭難し、おそらく死んだ」と思ったそうである。それほどの猛吹雪だった。あと1日下山が遅れたら、救助隊が出るところだった。(冬山登山の際は、行動予定を関係機関に届け出る必要がある)

冬山に登る際は、約2メートルの竹竿を何十本か用意し、その先端に赤い布を付けておく。それを登山の途中にルートに刺しておくのだ。下山の際はそれが目印になる。猛吹雪でほとんど視界がなくなった中、先端の赤い布だけが確認できた。それがなかったら、尾根を踏み外し、滑落することもある。

その周到な準備が、僅差で命を救った。

猛吹雪をなんとか凌ぎ、下山。濱田はそれ以降、山に登らなくなった。

清水君とは、四万十川を上流の中村から河口まで下ったこともあった。重さ約40キロのゴムボートを東京から背負って青春十八切符で四国へ。

清水君は、探検部生活にどっぷり浸った一つ下の後輩だった。そんな彼は、ロシアでバレエにはまったという。白鳥の湖からはじまって、くるみ割り人形、数々の演目。とにかく時間があれば、留学期間中、バレエを観に行ったという。どのバレエ団の誰々が素晴らしい。そのくらいはまったという。

「大造さん、バレエを観ながら僕は思ったんですよ。時が止まってくれたらいいなと・・・」

山男をも魅了するバレエという芸術。

モスクワでは、はまりはしなかったが、バレエも観たし、オペラも観に行った。またプーシキン美術館をはじめとして様々な美術館を訪ねた。サンクトペテルブルクにある世界三大美術館であるエルミタージュ美術館にも足を運んだ。

異国の文化や芸術にじっくり向き合うことのできたモスクワ滞在だったと感じている。

人が生きていく上で、芸術や美術を鑑賞する精神的な余裕というのは、どこの国でもどの民族にも必要なものなんだと思う。政治に携わるうえで、これらの経験はいま、大いに役立っていると思う。

(続く)

2019/11/06(Wed)
立憲民主党パートナーズ集会開催のお知らせ
下記日程で、立憲民主党パートナーズ集会を開催します。

場所:メルパルク熊本

日時:11月9日(土)13:00〜15:00


国政報告:矢上雅義衆議院議員・県連代表
県政報告:濱田大造県議会議員・県連幹事長

国政報告、県政報告がそれぞれ約20〜30分行われ、その後、参会者との意見交換会を開催します。

入場無料、お誘いあわせの上ご参加下さい。